日々徒然なるままに駄目っぷりと愚痴と愛しさの垂れ流し。 呟き手はkt-blue。なんかの病気。躁鬱腐女子らしいよ。咲かない桜に憧れをこめて。


by ktblue-black
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

実況用

ここに足跡を足していきます

お風呂はいってきました。二百八十じ さんじにじゅっぷん

実はまだよんひゃくっていったらどうする ごじ

二千くらいいったかな  ろくじはん ねむいさむい

貫徹でス 二千四百 間に合いません はちじ

はちじごじゅにふん  三千六百であれげんかいでしたがっこういきます

よび
内田百閒「冥途」の背景にあるものについて考察を加えようと思う。
「冥途」は1922年(大正11)に処女作品集として稲門堂書店より刊行されているが、所収の作品のうち何篇かは、この作品集刊行以前に改稿・改題を加えながら別の雑誌に掲載されている。
明治四十三年発行「校友会会誌」に「烏」、大正六年発行「東亜之光」に「道連」「山東京伝」「冥途」、大正十年発行「新小説」「我等」に「烏」「舞台の熊(後の「蜥蜴」)」「土手(後の道連)」「柳藻」「豹」「支那人」「石畳」「山東京伝」「波止場」「花火」「冥途」「蝦蟇口(後の「流木」)」である。
「冥途」の出発点ともいえる「烏」の初出である明治四十三年は、東京帝国大学に入学した年であり、漱石に弟子入りする一年前である。
「校友会会誌」版の「烏」は、明治四十一年の春、十日を費やして児島三十三箇所を遍路した百閒の体験を下敷きにして書かれた、ある宿屋での見聞記調の作品である。「新小説」版では説明・写生的描写だった文体を隠喩・象徴的に変更し、「死期を迎えた老猫が死に場所を求める」というくだりも削られる。
この「烏」という作品は、百閒の少年時代における「父の死」「実家の没落」という大きな消失を背景に描かれているものと考える。
表題となっている「烏」は、作中では苦しげな声で鳴き、生きたまま羽根を毟られ、最終的にはくびり殺されてしまう。だが、「私」はその烏の姿を見ることはないままである。
「烏」という鳥には不吉のイメージがあるが、これは西欧・キリスト教的な考えからきているものである。百閒の場合は夏目漱石「倫敦搭」に登場する烏のイメージなどから刷り込まれているものとも考えられる。一方で、古来日本では烏は「神鳥」として扱われた。
そのイメージから考えると、作中の烏は百閒の父親なのではないかと考えられる。百閒の父は病を患って死に、またそれに伴い実家も没落し、貧乏生活を余儀なくされる。烏の苦しみは百閒の父の苦しみであり、生きたまま毟られる羽根は家の状況を示しているとも取ることができる。そしてその全ては自分の目の前=自分に知覚できる・干渉できる範囲では行われてはいない点も、自分のあずかり知らぬところで事態が動いていくのを感じることしか出来なかった百閒の記憶とみていい。猫のくだりが省かれたのは、「死」のイメージの重複を恐れたからであろう。
次に、変更点が多くあった「道連」について考えたい。「東亜之光」掲載の「道連」は、「冥途」収録のそれとは内容が異なっており、構想段階では副題として「坊主頭」というタイトルが付けられていた。「私」が長い峠をこすと日が暮れ、いつの間にか一人の道連れと土手のような道を歩いている。「私」は次第に恐怖にかられ、道連の足音を頼んで歩くのだが、そのうちに水音を聞く。道連に尋ねると「今に話す」といって黙って山裾まで歩く。ふと立ち止まった道連はその場所に井戸があると示し、気味悪がって離れようとする「私」を掴まえて、逢引をしていた尼と坊主が馬に憑かれてこの井戸で死ぬこととなった話を聞かせる。すると道連が恐ろしい大きな声で「己がその坊主だ」と言い、途端に世界の全てが消失する。この話は、夏目漱石「夢十夜」における「第三夜」とほぼ同じストーリーの運びとなっている。「第三夜」で背負われている子供は「道連」である。夢十夜では主人公は思うように進めないうねった道を歩いており、これは漱石の内にある迷宮を現している。対する百閒は土手のような道を道連と並んでその足音を頼りに歩いており、漱石のように曲がりくねった道ではないのに自分の足を頼れないという点から、先の見えぬ人生あるいはその終焉に対する恐怖をあらわしていると考える。
この作品は「新小説」掲載時にタイトルが一度「道連」から「土手」へと変わり、内容もがらりと変わって「冥途」所収のものとなっている。
この頃の百閒は「死の不安」に囚われている。百閒の死生観として、一族の血脈への執着が見て取れる。百閒は自分の息子に父の名前をつけ、また百閒自身にも祖父の名をつけてもらっている。親の命は子供に受け継がれて一体となり、一族の血脈がつながっていくことでその魂は不死となるのである。作品中で道連が「私」の声を聞きたがることや、生まれなかった兄である道連と「私」・父親の声がおなじである点に、こうした考え方が現れている。
しかし、冥途の中に登場する子供の存在は、そうした考え方に反し「死すべきもの」として現れてくる。「白子」では女の子供である白子が「私」に踏み潰されて死に、他にも「短夜」では狐の化かしたものであることを証明するために、「私」によって赤ん坊がいぶり殺される。「柳藻」でも女の子供の手がぽきりと折れ、殺したはずの老婆へと姿を変えてしまう。唯一「木霊」においては生きているものの、「声は細くて、元気がな」く、泣き声はそれよりもなお元気がない。ここにあらわれてくる子供たちは「私」自身の子供ではないからだろうか。ここでまた、夏目漱石「夢十夜」第三夜をひくと、おぶわれた子が百年前に殺した人間であるという箇所がある。ここのイメージから生じたものなのかもしれない。また一方で、百閒自身の成熟願望であるとも取れる。百閒にとって子供時代は失われた輝ける楽園であり、彼の文学にも回帰願望がありありと見て取れる。前述した子供たちを殺すもしくは傷つけるのが「私」である点から考えると、百閒は回帰を望みながら、どこかで過去との決別を望んでいたのではないだろうか。
さて、先ほどより文中にしばしば「夢十夜」が顔を覗かせている。百閒の「冥途」は漱石の「夢十夜」の影響を強く受けている。百閒自身夏目漱石を盲信・崇拝しており、処女作において彼の作品を模倣してしまうのも仕方がないといえよう。
特に強く影響が見られるものとして、前述の「道連」に加えて「木霊」、「花火」、「蜥蜴」、「柳藻」、「波止場」などが挙げられる。
 作中に出てくる「女」について考える。「冥途」の中に出てくる女は、みなどこかに影を負って、物悲しげで不健康な姿をしている。そしてなにかしら「私」を脅かす存在として描かれている。これは百閒の抱える女性像の投影ではないだろうか。
百閒は幼少の頃より祖母に溺愛され、非常にわがままに育った。後々そのことを作品の素材とするほどである。心理学的に母なるものは肯定的な面では優しく包み込み育てるものだが、否定的な面では誘い呑み込み子供の自立を妨げ食い殺してしまうものでもある。この母なるものを乗り越えるのは思春期の課題でもあるのだが、その点において百閒は克服できているのだろうか。そう考えたときに、先述した「過去との決別を望む」ことが頭をよぎる。少年時代と決別できない百閒は、母なるものである祖母ともまた、決別できては居ないのではないだろうか。
また、妻との関係も考える。作中において「妻」という存在がでてくるのは「波止場」「疱瘡神」の二つだけである。どちらにおいても、妻は「私」以外の男性についていき、「私」と別れる結末となる。百閒自身は借金のことから妻である清子と疎遠になり、ついには愛人である佐藤こひの家へ住み着くようになる。本妻と別れないまま愛人と暮らすことにより借金は一層膨らんでいった。
このことから考えていくと、「花火」にでてくるそばにいてほしがる女の「浮気者浮気者浮気者」という発言や「尽頭子」の女の「あなたは私を忘れてはいないでしょうね」という発言も合点がいく。「木霊」の泣きながら歩き続ける女もそうだろう。また、「蜥蜴」や「白子」においては見たくないもの、気付きたくないものへと「私」を引っ張っていく存在として女が現れる。これは百閒が直視したくないもの、それは例えば借金であり、死であり、およそ現実的な問題と思われるのだが、そういったものことを言い立てる妻の姿ではないだろうか。
「冥途」は全編を通して物悲しく、不穏で克つ滑稽な空気が漂っている。陰鬱で重たい漠然としたもの。それはおそらく百閒自身の死に対する恐怖から来るものだろう。処女作品集「冥途」刊行までに、百閒は多くの大切な人たちを亡くしている。それは父であったり、祖母であったり、崇拝し尊敬した師・夏目漱石や親友達であった。大切な人を亡くすたびに、百閒は誰にもいつかは等しく訪れる死の影におびえた。そのことは彼の日記にも記されている。彼にとって人の生というものは生まれたときから死に向かってゆっくりと歩いていくようなものなのだろう。
また、はっきりと明示されてはいないものの、この作品群は「夢」の話である。生きることとは正にゆめまぼろしのようなもの、と栄華と没落とを実際に体験した百閒は悟っていたのだろう。
そして百閒の夢は、自身の少年時代につながる故郷のイメージを舞台として展開されていく。自らのペンネームとして名前を取ったほどである「川」のモチーフも土手という形を取って現れ出る。この「川」こそ時間の流れであり、彼岸と此岸を分かち、人の生涯を象徴的に表していると考えられる。故に「冥途」終結部において土手が現れるのだ。これは「道連」においても同じことが言える。
百閒の死生観は何よりもこの作品集の「冥途」というタイトルに現れている。「冥土」ではなく「冥途」なのである。「冥」界へと向かう道の「途」中なのだ。そこでひとの人生が交錯するのだ。


参考文献
内田百閒<百鬼>の愉楽  酒井英行 1993有精堂
幻想文学、近代の魔界へ 吉田司雄 2006蒼弓社
内田百閒 夢と笑い 酒井英行 1986有精堂
文鳥・夢十夜 夏目漱石 平成十年 新潮社
ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
[PR]
by ktblue-black | 2007-01-19 03:18 | 瞬感。